読書とよもやま日記

読書とよもやま話の日記、たまに短歌鑑賞します。

昨日日和って書けなかったこと

昨日の投稿で、ほんとは、言語化の限界について書きたかったのです。


だけど、日和ってしまって書けませんでした。一般には、自己実現のため、自分の思いは言語化するよう推奨されてますもんね。


私はときどき下記のようなことがあるんです。


思ったことをそのまま、書き出してみたとしますよね。


するとその内容のあまりの貧しさに驚くんですよ!


例えば、夢を書き出しますよね。すると、なんかわからんけど、夢がとたんにつまらなく見えてくるんですよ。


で、それは言語化の中にウソが入っているからなんだろうと思って、自分がカッコつけて入れたウソの夢(例えば南の島に行くとか)を削除して整理します。


そしたらねぇ、ほんとに残った夢って、こんな本読みたい、あんな漫画読みたい。以上。あとはせいぜい綺麗な夕焼け見たい。って感じなんですね。まったく驚くよ。


なんてつまらないんだろう。こんな夢しか思いつかない人生なんて。


と思う反面、あれ、でも、そこまでつまらなくないだろ自分の人生。なんかおかしいな。とも思う。


これは、人生の夢=アイデンティティと考えると、昨日の話とピタリと合致するんですよね。


自分の人生や夢を人に説明するのには、言語化は必要です。でも、文章からはみ出ている部分が、常にあるってことを忘れちゃいけないと思う。ほとんどはイメージのままなんですよね。


それは単に言語化がまだ足りてないからだ、という判断も成り立ちます。


でも、あまりにも深い部分はそうそう言語化できないのではないかと思います。自分の中の深いことを言語化できるのって、人生で1,2回なんじゃないかと思う。

 

なんか、河合隼雄の本を読むと、ある人が思いを発言するのに年単位かかる話がよく出てくる。そっちの方が腑に落ちるんですよね。


このことはまたいつか考えようー。

何度も語り直すアイデンティティ

正月以降、この本を繰り返し読んでいる。古本屋で150円で買ったのだけど結局Kindleもポチしてしまった。


『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一著

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

 

 


平易な言葉で書かれているのに、びっくりするような文言がそこここにある。


ひっかかり、ひっかかり読むので、1回目読み終わるのに時間かかった。


びっくりポイントはいくつもあったのだけども、今日響いたのは、以下のこと。


著者がまず挙げた例はアスリートの話。メンタル・トレーニングの活用により、練習も本番もポジティブなイメージを持って臨めるようになり疲れを感じなくなった、とアスリートは言うのだが、著者はこれが危険では?というのである。


本番で少しでもイメージと違う状況に陥ると、予め持ってた1つのイメージがまったく役に立たなくなるのではないかと。1つのストーリーを決めてしまうことで、柔軟性がなくなるのではないかと。


そこから著者はアイデンティティの柔軟性について話を進めていく。


・アイデンティティとは自分に語って聞かせるストーリーである。

・アイデンティティとは、他者との関わりのなかで求められる側面を持つ(あんたが何者か説明してくれ、ということ)。

・人は一貫したストーリーを持ちたがるけれども、融通のきかないストーリーに固執することはむしろ不自然である。

・人生は自分の自他の関わりのなかで、自分に聞かせるストーリーを破綻を繰り返しながら何度も語り直すことに他ならない。


なんか、すごく納得できた。まだ消化しきれないとこもあるけれども…。


私はよく時間管理の本も読むのだが(そして読むとすぐに、ヨシ、この通りやろう!と思うのだが)、時間管理の本ではたいてい、自分の人生の目標を明らかにして、優先順位を決め、それに沿って時間を使うことが推奨されている。


そのこと自体は今回の本と矛盾はしないが、人生の目標の見直しは柔軟にしないとあかんよ、ということは言えそうだ。そして、人生を貫く一本の線のようなアイデンティティは幻想だと思っておいた方がいいのかも。(高度な技を持つ職人さんなどはそういった一本貫くアイデンティティが人生の早期に見つかった幸運で稀有な例なんだろうと思う。)


追伸)この本はひらがなの多い文なんだけども、えー!みたいな文言がほんとに多い。


追伸2)

去年読んだ楠木建の本に通じるところがあると思った。楠木建さんも、人生に予め予定なんて立てられない。ある程度流されるほかないというようなことを言っている。

意志力消耗〜

職場の機器導入で、色々検討してるのだが、父に頼らずに高価な買い物をするのが初めてで、慣れない。


複数社から資料集めて懸念事項拾い上げて、デモをしてもらって質問をして、同僚と共有するのは新鮮ではある。


なのだが、いつもの業務に並行して進めるのが思いのほかしんどい。明らかに買い物に意志力を吸い取られている。


ドキュメントに進捗をガー!書き出したらかなり気持ちが落ち着いた…。明日これを職場で共有しよう〜。

間をあけての一歩はまたつらい

初出勤、なぜ鬱々としたのだろう。


多分頭の中で一番気にかかってることについて、年明け全く手をつけてなかったからだ。


気にかかってるのは、職場で高い機器を購入するのにどの会社のにするか決めなくちゃならねぇな!ということ。


年末、10人くらいの方々に色々と教えてもらって、4つまで会社を絞り込めた。


その後どーにもおっくうで何にも動けないでいたのだった。それでどよーんとしてた。


で、職場の同僚に各会社に連絡を取るのをお願いしてしまった。頼んだうち一箇所はネット経由でデモの申し込みができたとのこと。資料請求はできている。それだけでだいぶ気が楽になったー。夜になって、ほかの会社についても多少情報を集めることができた。


私のような慎重人間の行動って最初の一歩がグギギギ…って感じで動くのに時間がかかる。だけど、その一歩が動けたらあとは比較的楽だ。


なのだが、正月休みみたいに間が空いちゃうと、また一歩踏み出すのからやり直し。グギギギ…って時間がかかる。間をあけない方がいいんだと反省した。


そういうに考えていくと、久しぶりに一歩踏み出す時は、すごく楽な一歩にするべき。今日、連絡とるのを人にお願いしてしまって、その人には悪かった。けれど、お陰で「一歩目の負担感」を分担してもらえて、楽に一歩を踏み出せたわけです。感謝した。

照れ

昔、清水ミチコも言っておった。

照れが、いかに人の行動を狭めているかと…(文言は不正確です。確か清水ミチコは、人をすごい、すてきと思ったときに照れが邪魔して褒め言葉が言えないのは損だ、という文脈で言っておられた)。

 

照れるのって可愛い印象だけど、いい大人が照れる必要ないんだよな。

 

「えー〇〇するのー」

「えー〇〇着てるのー」

「えー〇〇買うのー」

 

には

 

「うんそうだよ(にっこり)」

 

でいいはずなんだ…。

結局何が決断を妨げるのか

仕事で新しい方式を取ろうとするとき、必ず頭をもたげる憂うつな気持ち。これがあると決断に対してつい後ろ向きになる。


「なぜなぜ」で自分を追い詰めてみよう。


なぜ、新しい方式がいやなのか?

→一部の人から必ず苦情が出るから。


なぜ一部でも苦情が出るといやなのか?

→思い出して苦しい気持ちになりそうだから。


実は苦情を受けて問題への対策を立てたりするのはそんなに嫌じゃないことに気づく。ストレングスで「回復」が強いから、むしろそういうのは好きなんだよな。


「思い出して苦しい気持ちになる」これをなんとかすりゃいいんだよな。


このことはまた考えよう。